語り得ぬものを語る

日々思ったこと感じたことについて書きます。読んでいただいた方に少しでも共感できる部分がありましたら嬉しいです。

グランドセイコー(電池交換)

伊勢丹の時計売り場に行きGSの電池交換を依頼してきた。メーカーに送ってパッキンの交換などもお願いしたので7000円かかるらしい。前は5000円だった気がするが。よいものはメンテも金がかかるね。。9Fだから、きちんとメンテナンスして大事に使いたいと思うので必要経費かなと思う。

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オリエントスター(私の愛用する時計)

私の愛用する時計その2。トノー型のケースが特徴的で、クラシックな雰囲気が好み。パワーリザーブ表示と、クイックカレンダーもあり、必要にして十分な機能を持っている。オリエントといえば、数年前にセイコーエプソンに買収されてしまい、すっかり存在感が薄くなってしまったが、この時計を作っていたときはそれより前のことで、往時の勢いやデザインの面白さが窺える。使っているうちに汗で塗装が剥がれてきたり、こういうところにチープさを感じてしまうが、そういったところがオリエントらしさでもあって、妙に許せてしまう所でもある。あと、使っているうちにガラスが曇ってきてしまったのも難点。まあ、このユルさゆえに気楽に使えるわけだ。

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グランドセイコー(頼りになる相棒)

気がつけば2秒おきの運針。ああ、こいつもいよいよ電池切れか。買ってから10年以上経ったけど、時刻合わせをしたことがほとんどない。いくつか時計を持っているが、こいつは本当に頼りになる相棒だ。
※写真は以前撮ったものです

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京アニ事件について

犠牲者が35人ですか。大惨事になってしまいました。犠牲になってしまった方には、深い哀悼を捧げます。

headlines.yahoo.co.jp

今なお想像を絶する事件ですが、どんな人だって、いつこういった事件に巻き込まれるか分からないと思います。

この事件については、多くの人がヤフコメやTwitterやらでコメントしていますが、その多くは「人生に絶望しているのなら1人で勝手に死ね」「これだけの犯罪行為を計画的に行えるのだから責任能力はあるはずなので、法廷で裁いて犯人を必ず死刑にしろ」といったものです。あとは、「35人も殺す人を生かしておく価値はないから助ける必要はない」といった発言でしょうか。

どれも理由あっての発言だと思いますし正論だと思います。しかし、この手の犯罪の抑止には繋がらないでしょう。犯人は自暴自棄になって死をも恐れない、いわゆる「無敵の人」ですから、一般的な感覚から責任を問うても虚しい結果になります。むしろ犯人を精神的に追い込むだけでしょう。

犯人の動機は何でしょうか。本人の口から明らかにされるかは不明ですが、想像するに、京アニに強い恨みを持っていたことから、孤立した状態で何らかの不満や恨みを募らせて、それが一気に爆発したということでしょうか。アニメに興味がある人なら、京アニで働く人は憧れの対象で恵まれた人に思えたことでしょう。そういった人と我が身を比較し、劣等感を募らせていったのかもしれません。

仮にどんな動機があったとしても殺人は許されません。ましてや無関係の人に危害を加えるなど論外です。しかし、川崎の通り魔事件にせよ、無差別テロが頻発している現状を考えると、事件や犯人を断罪したり社会的な論評を加えるだけでは足りないことだとも思うのです。

それは一体何でしょうか。難しいことですが、こういった犯罪を犯してしまう根底には何があるのかを深く考えることだと思います。事件を起こす人には明らかにどうしようもないような人も居ると思います。しかし、深い孤独や絶望に苦しんでいる人も居るわけで、少しでもそういった人の気持ちを想像したり、時には困っている人には手を差し伸べてあげたりすることが大切なのではないかと思います。

お祝いと雑感

今日は私の誕生日のお祝い、先日出した本の出版記念、父の傘寿のお祝いをした。父には先日購入した山田平安堂のお椀をあげた。その後で、家族揃って記念の写真を撮った。父はとても喜んでくれた。あげたお椀はもったいなくて正月まで使えない、と言われた。

ところで、最近父からことあるごとに「ありがとう」と言われる。それはうれしいことなのだが、時折さびしく感じられる。それはどこかお別れのニュアンスを含んでいるように感じるからだ。自分が考え過ぎなのかもしれないが、平均寿命の80を過ぎれば、人間いつどうなるか分からないから。いずれ訪れる別れの瞬間を覚悟しなくてはいけないのかなと考える。

あと、「身体にだけは気を付けろ」ともよく言われる。この言葉も重みがある。今は順風満帆かもしれないが、会社などいつどうなるか分からない。そうなった場合に、頼りになるのはこの身一つなのだ。

「何をやっても生きていける」と父は言う。確かにそうかもしれないが、全く自分に合わない仕事や生き方を選択するのはつらいものがあるよな。

最近私は、髪が薄くなってきたり、下っ腹が出てきたり、視力が落ちてきたり、いよいよ老化が進み始めた感じだ。そんなこともあるから心配してくれているのかもしれない。有難いようなうれしいような少し寂しいような44歳の誕生日を過ごした。